帰化再申請

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帰化再申請

再申請は、原則無制限

日本人になろうとしているあなた、あきらめないで ! 再申請は何度でもできる。

原則として再申請は無制限です。ただし、殺人・強盗などといった凶悪犯については、何度トライしても帰化申請は極めて困難でしょう。また、奥さん以外に何人もの女性にお子さんを生ませているような男性も公序良俗(公の秩序(社会の一般的秩序))および善良な風俗((社会の一般的道徳観念)のこと。)に反し、余程の覚悟で身辺整理をしない限り帰化申請をしても許可が下りる見込みは薄いと考えられます。

ほかにも、再三申請を重ねても不許可となるケ-スを見てみますと、犯罪歴、万引き常習犯、すり、窃盗、売買春、風俗営業法違反、脱税、麻薬、大麻栽培、金券類偽造、出入国管理及び難民認定法違反など、種々の問題を抱えているため帰化の重要要件「素行要件」に深く抵触することが原因なのです。

不許可後、何年くらいで再申請ができるかについては、犯罪の軽重、罪を犯した本人の反省状況と二度と罪を犯さない客観的(第三者がみてそうであろうとおもえること)理由を法務局に対して示すことができないといけません。

よって、事案によりケ-ス・バイ・ケ-スですが再申請を強く希望し、自分自身が二度と罪を犯さない強い意志をお持ちであれば当事務所にご相談下さい、再申請が可能か、可能であれば何年を有するのか、経験を基におおよその診断(要予約:有料)を致します。 なお、最終事項に再申請の事例をトピックスで紹介しています、ご興味のある方はご参照下さい。

再申請は、申請本人でも可能か?

再申請をするかしないかはあなたの情熱次第です。一度や二度の不許可にもめげずに帰化許可申請にチャレンジする気持ちがあるか、自問してみて下さい。

長い人生、一度もつまずかない人はいないわけですから、頑張ってみる価値は十分あるでしょう、しかし反面、帰化許可申請は専門家でさえも手間も時間もかかる事案があります。それを自分のこととはいえ、素人の皆様がなさるのは失敗を繰り返し過大な労力を使っても至難な業といえます。

また、問題なのは法務局の担当者がすべて帰化のベテランではないというところがネックとなるのです。その理由はベテランでないがゆえ申請者の申請内容を端的に把握できず、どうしても指示が小出し(不慣れなため)になったり、指示が一貫(一つの考え方や方針)していなかったりするのです。

従前の例として、ある依頼者の方が、地方法務局(東京以外)に申請し一度不許可とになり、今度はご自身で同局に14回も足を運んでやっと帰化許可申請を受理してもらったのに、それでも不許可となり、その担当者から「不許可理由は一つではない」などと不許可理由もまともに聞けることなく、その後当事務所を頼って来られ、不許可理由を徹底的に解明し許可の要件を整えた上、再々申請でようやく許可を得たという事例もありました。

よって、精神的にデリケ-トな方や自分で動くのが億劫(面倒くさい)な方や、本業の仕事が忙しい方は、かかる時間・予想不可能な法務局からの指示(追加の本国資料や翻訳それに附帯する追加説明資料の作成)などで予想を超える時間が拘束されたり、まったく予定通りに申請が進まないなど結局時間がかかった挙句、途中で挫折し帰化申請を断念することをなど考えると本人申請は相当きついものがあるかもしれません。

再申請は、専門家が安全な理由

専門家が、本物の専門家であるならばこれに優るものはありません。

専門家の程度にもよりますが、当事務所は総計で3000人以上の外国人(80か国以上の外国籍の方)を日本人に帰化させた実績があります。したがって、帰化の知識と実務経験による豊富さ・実績から言えば日本のトップレベルにあることはいうまでもありません。さらに本物の専門家は次のノウハウが他の事務所とは全く違います。

 

①法務局担当官の専門の程度を直ぐに見分けることができる(当事務所の所長自体が従前法務局担当官であったことから)したがって、手慣れた係官を識別します。不慣れな人や新人にかかわるような愚は犯しません。

②法務局担当官とのインタビュー(面接時の質問)のアピ-ルポイントや心構えをアドバイスできる。(その申請者の申請内容・状況・経済的背景・帰化後の生活など、元法務局担当官の立場で現役の担当官が質問してくることを事前に予想して詳細にアドバイスします。)

③「動機書」の書き方も申請者本人の帰化申請に至る動機(内心の経緯)を自然でありながら、要点を抑えたものに仕上げるよう教示できる。

④元法務局担当官だった立場から、(現役の法務局担当官が要求してくるであろう帰化申請に必要な帰化申請者個人の状況に応じた必要書類の選択、選別をし、帰化申請に必要不可欠な書類を想定し、収集し、作成するので、)申請を円滑(スム-ズ)に進め許可(ゴール)に導くことができる。

⑤申請受理から許可までの半年から1年余りの間、元法務局担当官だった立場から、あらゆる申請者の質問に即答することができます。

⑥帰化申請にかかわる帰化申請者の人生相談(夫婦、親子、子供の進学、就職、結婚、相続)などにも応じることができます。(ただし、要予約の上、オプションサ-ビスをご利用下さい。)

最後に、当事務所が実際にてがけた多くの再申請の事例の中から今でも心に残る2例を、この後の「コラム」で紹介します、多くの方がくじけず再挑戦しています。これから再申請をしようとお考えの方は、ぜひご参考にして下さい。

従前に1人の若者(中国籍)が当事務所に突然アポイントなしで訪ねてきたのです。

そしてその青年は私(前田)に対し、「僕は、先生の本を何回も読みました僕はどうしても日本人になりたいのです、どうかよろしくお願いします。」ということでした。そして、その青年から事情を聴き始めたところ、これまでに過去6回も帰化申請をして全て不許可だったということでした。

私は青年に、「今まで、本当に苦労しましたね。」と労をねぎらうと彼は静かに泣いていました。

さらに詳しく事情を聴くと、「過去にきちんと会社には就職(就職時は履歴書のみで採用される)するのですが入社してしばらくすると、人事担当者に住民票か戸籍謄本を提出するように言われます。

そう言われても私は外国人ですからこれらのものを提出することはできません。」ですから、結局最終的には会社を辞めるはめになり、その繰り返しで会社を辞めてしまうので、一つの会社に長く勤められないため、結果「生計要件」を具備せず帰化要件を満たさない事案に該当し不許可を重ねた、ということでした。

また、彼には他人には言えない切ない事情があったのです。その事情とは

彼は「孤児」だったのです、彼はその事情を隠すため住民票も戸籍謄本も今まで務めた会社に提出することができなかったのです。私は、その青年の生いたちと「孤児」という事実を聞かされ、今まで彼がどれだけ苦労してきたのかと思いを馳せると、今度は私自身の目頭が熱くなったのを今でも鮮明に覚えています。そしてその青年はあらためて私に、「7回目の帰化申請は、すべて先生におまかせするのでぜひ、よろしくお願いします。引き受けてもらえますか?」とお願いされました。

私は、「わかりました、私が必ずあなたが日本人になれるように協力します、ただし、1つ条件があります、その条件は現在勤めている会社に①国籍のこと、そして自分が②孤児であることを包み隠さずに打ち明け身分証明について理解を得て協力してもらいましょう。」と青年に提案しました。

青年は私の話にあいづちを打ちながら不安な顔をして聞いていましたが、続けて私は青年に対し、「大丈夫、私も会社に行き直接社長にお会いして、真実を話して説得してあげましょう。」と言ったのです。それを聞いた青年は、涙ながらに「ぜひ、お願いします。」とのことでした。

その後、私が青年の働く会社におもむき社長に直接お会いして、私から青年の「過去」や現在の苦しい「身上・状況」を説明し、最後に身分証明の件についての協力を要請をしました。青年の事情を私から聴いた社長は、身分証明について快く承諾をしてくれたのでした。以後、私と彼は二人三脚で申請要件を整え、ともに法務局に何度も足を運び、彼は念願であった帰化申請が許可となりました。

やがて幸せに結婚をし、子供さんを連れて私のところにあいさつにも来てくれました。

7回の帰化申請で許可となり、許可後3年を経て日本人女性と結婚しそして、ご本人から「長女の出産を先生に報告したい。」とのことで当事務所に来所していただいた。〈元中国残留孤児:宋 斌 様:当時〉

彼の帰化への執念と苦労に苦労を積み重ねた末に、帰化許可時に私に見せた満面の笑みは、私のくぐってきた人生の中でもひときわ鮮明に今も私の中に息づいています。

ある会社を経営する男性(朝鮮籍)が、アポイントどおりに当事務所に訪ねてきました。

その経営者いわく、これまで帰化申請に費やした時間(不許可2回:通算約4年間)と労力が虚しいこと。それに加え自分自身の事情以上に子供たちの期待を裏切り親のメンツが丸つぶれ、というのがその方の当初の訴えでした。私はご本人に前回の「不許可通知書」を持参してもらい、その後法務局の担当官と面談した結果、不許可理由が判明したのです。

不許可理由は、①帰化申請中に交通事故(人身事故)をおこしたこと②所得税の過少申告者(前々回同様)であったことなどが主な理由でした。交通事故は被害者の健康に暮らす権利を一瞬にして奪ってしまいますので例え、被害者に過失があったとしても車を運転するドライバ-は社会的責任を問われてしまいます。

また、過少申告という行為も「所得税法」という国家存続にかかわる日本の重大ル-ルを守っていないので素行が「善良」という要件からは程遠くなるのです。そして、経営者である依頼者に対し、この状況を根本的に改善し帰化許可を得るために2つのアドバイスをしました。

先ず ①「自動車の運転について」近くの用事ででかけるときには、自転車を使用し、どうしても車を使用しなければならない時には極力従業員の方に運転してもらい、運転する機会を減らすよう提案したところ、その依頼者はやがて家族のために、さらにいえば、子供たちの期待に応えるため帰化許可を得るために、自家用車を「売却」したのでした。

次に、きちんとジャッジのできる税理士を紹介し、きちんとしたアドバイスのもとフェアな②納税を実践してもらいました。このアドバイスから3年間依頼者は帰化再申請を目指し二つの課題に真摯に取り組みました。その結果、念願の帰化許可を得ることが出来たのです。

依頼者は私に、「先生これでやっと子供たちに対して親としてのメンツが回復できました、家族が心の底から祝福してくれています。」とお礼を述べて頂きました。私も依頼者に、「長い間、本当にご苦労さまでした。」と述べると、お互いにお互いの健闘を称えるように自然に握手をしていました。

3回目の帰化申請(通算6年)で許可され、念願の日本人となった。諸手続の為、福岡法務局北九州支局来局時に撮影したもの。〈 韓国籍:全 明博 様:当時 〉

不思議だったのは、その時の依頼者の喜びの笑顔が、初めて当事務所に来所したときの顔つきとはまるで別人であるかのように、帰化許可をきっかけ(自分は日本人になるという一つの目標のために今までの生活や習慣を全く改めて努力した結果)として顔つきがまるで「日本人」に変身したかのように私の目に映ったのが感慨深い印象として残っています。

スタッフからの突然の連絡

 私が、日本行政書士連合会(以下日行連という。)の理事として事務局で執務をしていたところ、当事務所のスタッフから日行連の事務局に連絡があり事務局スタッフからメモ書きで「至急事務所に連絡がほしい。」とのことでした。 私は、執務の合間に当事務所に連絡を入れたところ当所スタッフから、「先生、関西から来たという○さんという人が先生にどうしてもお会いしたい、と3回程連絡が入ってますがどうしますか?」とのことだったので、私がスタッフに「○さんという人は、今どこに居るのか?」とたずねたところ、「東京駅近くの喫茶店「R」におり連絡先も聞いています。」とのことでした。

そして、私が喫茶店「R」に連絡を入れ、簡単に事情を聞いた後、○さんと夕方6時に赤坂のホテルで会うことになったのです。○さんとお会いしてさっそく事情を伺ったところ、ご本人の国籍は「北朝鮮」で11年前から名古屋法務局で3回帰化申請をしたが不許可となり、内最後の1回は弁護士に依頼したが不許可となり、「再申請」するからと高額な費用を支払ったが結局3年間放置されたので、その弁護士に厳しく苦情を述べたところ、差別用語を含め「帰化申請はあきらめろ」と不遜な態度で吐き捨てられるように言われたそうです。

この時○さんは当該弁護士に精神的に奈落の底に落とされその時は立ち上がれないくらい心身共に著しく疲弊したそうです。 それでも日本に対する「帰化」をあきらめられない○さんは4回目の帰化申請を名古屋法務局の法務局事務官に相談したのです。そして、その法務局事務官は○さんの「帰化」に対する真摯な姿勢を10年以上も目の当たりにし気の毒に思ったのか、はっきりとは言わなかったが、私と何となく知り合いのような感じで「東京の前田先生を尋ねなさい。」とひとこと言われた、とのことでした。

確かに私は過去名古屋法務局にも在局していたこともあるので、そのことを○さんに伝えたのは誰だかだいたいの見当はつきました。
 更に、○さんは私に「先生、私には祖国はありません、仮に「北鮮」という国があったとしても、私も私の家族も二度とあの国に行くことはありません。」と言った後多少の間があり、「だけど、日本政府も私や家族を全く受け入れてくれません、私の・・・・私達のどこが悪いのでしょうか?」と私を見つめ、その見つめた目からは、過去11年間の「帰化申請」での辛く切ない想いが彷彿されたのか押さえていた感情が堰を切ってあふれるように大粒の涙がほほを伝ってこぼれ落ち、泣きながらハンカチで顔を被い声を殺して泣いていたのです。そのかすかな泣き声の響きが私の心にも突き刺さるように伝わってきました。

 私は、○さんの気持ちが収まるまで「時」を待ちました。そして数十分後○さんは呼吸を整え私を見つめ直し、「前田先生一生のお願いです、私の≪帰化≫の申請をお願いできないでしょうか?」と言われました。

 私は一瞬ためらいましたが、○さんは頭を下げたまま私の返事を祈るように待っているのが痛いほど解されたので、「わかりました、一度スケジュールを調整して名古屋(法務局)に行きましょう。」と答えました。

名古屋法務局にて詳細を聞くと…

 それから2週間後、私は名古屋法務局に赴き○さんの事件(不許可事由)を名古屋法務局事務官から詳細を聞くことができました。(※当該担当法務局事務官とのやりとりは私も元国家公務員であり、且つ守秘義務の観点から国家公務員法に抵触する部分がありますので内容は全て割愛致します。)したがって、要点のみ不許可事由を説示すると、「○さんの親類にあたる者と実弟が北朝鮮による日本での重大犯罪の主犯者及び実行集団の後方支援(潜伏先の手配や逃亡経路の確保など)者で他の部局(法務省)も親類、実弟両名の出入国を監視し重要人物として警戒し国際手配している。」との事でした。

 私は当該法務局事務官と別れた後、○さんの待つ栄町のホテルには向かわず、一人名古屋の官庁街を歩いていました。それは、本件事案は本人の肉親にかかわる素行要件※日本国籍取得(帰化)の要件ご参照だけではなく、思想要件※日本国籍取得(帰化)の要件ご参照も加味されるため、過去の不許可事由に加えて弁護士に3年間事案を放置されたとはいえ、帰化許可が殆んど不可能な事案だということが直ぐに解されました。私はそのことを○さんにどう伝え、どのように帰化を諦めさせるか私自身も頭の中を整理する時間が必要だったのです。

 それから暫くして私は○さん待つホテルのラウンジに向かい本人と対面しました。そして、ウエーターにコーヒーを注文し運ばれた水を半分程飲んだ後、私は当該法務局事務官から聞いた内容を○さんに「ありのまま」説明をしたのです。

 私の説明を聞いていた○さんは、「お ぼ ろ げ」に私のひざあたりを見つめ瞬きもせず一言で言えば放心状態となったようでした。そして、私も○さんに声を掛ける雰囲気ではなく、「時」がその空間のみ止まっているかのように過ぎていた感覚でした。○さんにとってはこの事実が「青天の霹靂」なのか、いずれにしても受け入れられない「現実」であり、反射的に帰化は「絶望」的であることは本人の態度から瞬時に悟ることができました。

したがって、私がなおその先の説明を要することなく唯、息苦しく重い時間が経過して行ったのです。 その後ある程度の時間が経過した頃、○さんが私の顔を見上げた時に私と一瞬目が会いました。その時私はすかさず○さんに「この事実に心当たりがありますか?」とたずねました。

 ○さんは首を横に振り、さらに小声で「もう数十年前から弟には会っていません・・・・・・。」そして暫く間があった後、「こういうことだったんですか・・・・・。」と言って又暫く沈黙が続きました。そして長い沈黙が続き時刻は既に16時を少し廻っていました。私は腕時計を見ながら○さんに「そろそろ東京に戻ります。」と静かに告げたのです。

すると○さんは、「先生、もう終わりですか?」私は一瞬その言葉に意表を突かれましたが、私は○さんの視線を見ながら悟すようにゆっくりと「 頷 き 」ました。すると○さんは私に「先生今日は東京に帰らないで下さい、実はここで部屋を取ってあります、本当に申し訳ありませんお願いします。」と言われたのです。私は迷いましたが、むしろこのまま東京に帰るよりも今日は○さんに付き合って納得して別れた方がお互いに気が収まるだろうと思い、「解りました。今日は付き合いましょう。」と答えたのです。

クライアントに寄り添う

 その後ホテル近くの鳥鍋屋で私は○さんと酒を酌み交わしました。最初はお互い何を語るわけでもなく、私達のテーブルに運ばれたものを順番に口にし、私と○さんはお互いに言葉もなく酒を酌み交わしていました。

その後、鍋も煮立ち酒も少し回って来たころ、○さんが何げなく自分の生立ちや、二度の戦争(太平洋戦争、朝鮮戦争)を経て親類や家族そして兄弟が完全に分断(日本側と朝鮮側に)されてしまったこと。そして、自分は父親とともに戦後クズ鉄拾いから身を起こし建設関係の会社を経営するまでに至ったが、その一方で血肉を分けた兄弟がこのような状況(完全に音信不通となり生き別れになる運命)になったことは「とても辛く、心が引き裂かれたようで本当にむなしい・・・・。」

又、弟とは幼い時からよくケンカもしたが本当に仲が良かったので弟もきっと「同じ想いだと・・・・思う‥‥。」と私に「独り言」のように語りかけていました。 私は、○さんの「独り言」を黙々と酒を飲みながら唯黙って「 頷 い て 」聞いていたのです。

それはつまり、○さんの不幸は元を糺せば1910年から始まる日本の歴史に翻弄された広義の意味での数多くの「犠牲者」の一人であることは間違いありません。私は○さんの話を聞けば聞く程、元国家公務員として痛切に日本「国」として、そして「日本国」民としての責任を感じざるを得ませんでした。且つこの歴史的慘禍に砕かれた○さんの癒えぬ悲しみを感じれば感じる程、私の心の奥底にある「魂」が私自身を突き動かそうとしていたのです。

そして、私はいつのまにか「手酌で」酒を酌みながらこの○さんの絶体絶命とも言えるこの状況を救ってあげること即ち、○さんを「帰化させてこそ自分は真の意味でプロの中のプロだといえるのではないか。」と、唯々と自問自答していたのです。

この時、○さんが私に何かを語りかけていましたが、店内の雑音に打ち消され、自分自身の「自問自答」に没頭していたため暫く私の耳に入ってくることはありませんでした。

その後24時を少し廻った頃、お互いに、酒も結構飲みましたが私も○さんも、決して真から酒に酔っている訳ではありませんでした。
そして、その店を出た後ホテルの入口で○さんが別れ際に、「先生・・・・・」と言った後暫く私を見つめていましたが、私も○さんに「解っている・・・・何も言わないでくれ・・・・。」と頷きながら目で応答し、明日このホテルのロビーで朝8時30分に会うことにしました。

「帰化」のプロとして…

そして、私はホテルの部屋に戻った後シャワーを浴び又、ビールを飲みながら○さんの「帰化」をどうすれば「許可」に持っていけるのかを「ひと晩中」考え結局一睡もできませんでした。ところが、「ひと晩」考えた末にある結論と方法を見い出すことができたのです。それは以下2点です。

その「 1 つ 」目は、私の名古屋の元同僚も、○さんの「 帰 化 」に対する愚直さに心を打たれたように、○さんを取り巻く数多くの日本国民を見方につけること。更に加えて言えば、私は法務局事務官として松山・名古屋・東京法務局から最後は栄進し、本省(法務省)民事局の大臣側近で全国の法務局(支局)から進達された帰化申請事件を、大臣側近として1ケ月に150件~200件以上を決済する側にいたので、その中に類似の事件があったことを思い出したのです。

「 2 つ 」目は、実弟を含む親類との交際が過去数十年(本件重大事件以前)にわたり「 断 絶 」されていることを客観的に立証(疎明)することの2点に限ると「 結 論 」を導いたのです。即ち、帰化 ・ 許可は「 不 可 能 で は な い 」ということに「 確 信 」を持ったのです。

そして、気づいてみると朝8時を過ぎていたので急いで身任度を整へ下のロビーに向かいました。

○さんは、ロビーの喫茶スペースの窓際に座っていました。私に気づいた○さんは 2、3 歩私に歩み寄り、あいさつした後お互いにイスに座りました。そして、私の座った位置が朝の日差しで眩しかったので、目をつむりながら腕を組み昨晩考えた事を多少整理しながら○さんを見やりました。○さんは神妙な面持ちで私を見ていましたが、私は○さんに対し「○さん、結論から先に言います。一晩考えましたが、私はあなたの帰化手続をすることに決めました。」

「え!・・・・・・はい。」「本当ですか先生・・・・」
「本当です。担し、今から説明することを必ず実行することが条件です。」
「はい、もちろんです。やるしかありません、というより、本当に申請をやっていただけるのですか・・・・・・?」
「・・・・・・・やります、私も一晩考えた末で決めたことですから。」

この瞬間に私と○さんの遥かなる「帰化」への道が始まったのです。

帰化に必要な条件をクリアするために

私が○さんに「帰化申請」をするにあたり「条件」として、課した課題は以下三点です。

先ず( 一 )点は、
自らの事業ないし自分の生活にかかわる団体(PTA ・商工会他)や組合(建設関係など)から20以上の「 推薦 」を取ること。
次に( 二 )点目は、
○さんと個人的結びつきのある人又は○さんの「 帰 化 」を理解しいただいた上で住所、氏名、を記載した「 嘆 願 書 」の署名を500名以上から取交をされること。
最後に、( 三 )点目は
○さん本人に素行要件の問題が全くないことでした。

そして私自身としては、○さんと実弟及び親類との交際が断絶(全く交際がない。)されていることの疎明をすることでした。(※この「疎明」については上掲のとおり諸事情をご理解頂き全て内容を割愛致します。)

そして、この上掲( 一 )( 二 )については私が上述したとおり私が本省(民事局)で大臣側近で審査職務を初めたころ、ある著名な方の「 帰化申請 」事件が○さんと内容は違うものの、申請人についての「 素 行 要 件 」は特に問題はないが親類縁者に大きな問題があり上掲二点の手法が用いられたことが想起され、今般○さんの帰化申請で同手法を用いることにしたのです。

しかし、上掲二点については当初の6箇月は惨憺たるものでした。その内容は、団体及び組合の「 推 薦 」はたった2件で「 嘆 願 」については、住所、氏名を記載するという「 条 件 付 き 」ですからハードルが高く、たったの30名(ほとんど身内レベル)しか署名が集まりませんでした。

それは、10箇月を経過しても殆ど変わることはありませんでした。そして、この状況に挫ける○さんを私は東京から 「叱咤激励」するも、やはり本人は「 著名人 」でもなく、上掲( 一 )( 二 )の課題は自分自身だけで進めるには限界があるな、と私自身も感じたので、その翌月から私自身が週末に中部地方に新幹線で向かい、○さんとともに、選挙応援並みに「 ミニ集会 」で人数を集めて○さんの 「 帰 化 」にかかわる苦境(○さんにかかわらず在日の方は日本の歴史に翻弄され、且つ個人的に素行要件を満たしているにもかかわらず、諸事情により「 帰化 」ができないでいる窮状を訴えた。)を説明し、少しずつ理解を得ていくことに徹しました。

その後少しずつ○さんの身近な方から理解が得られ、中部地方に行くごとに集会の人数は「 ミニ集会 」から 「60~80人 」レベルに増え○さんの「 帰化 」に対する日本人の理解が深まっていき「 嘆 願 書 」も、多くの方の理解が得られるようになりました。

 そして、上掲( 一 )( 二 )の着手から1年10箇月が過ぎ、私は一年間で中部地方に計16回、述べ250人以上の人と名刺交換をしたのです。

その結果、上掲( 一 )については、団体及び組合の「 推 薦 」を目標の20に届かなかったものの「 17 」の推薦を貰うことができました。
 次に( ニ )については目標の500人を180人上回る「 6 8 0 人 」の「 嘆願書 」の賛同を得ることができました。私はこの結果を携え、○さんの4回目の帰化を名古屋法務局に申請をしました。

そして念願の帰化へ…

そして申請から1年3箇月後私が○さんの事件を着手してから3年1ケ月後、○さんの帰化は許可が「 交付 」されました。私達は○さんが官報に公示後、「帰化許可通知書」の交付を受けるため名古屋法務局に出頭する際に※帰化許可後の手続きご参照 名古屋法務局で「 再 開 」することにしました。

 その時私達に全く「 言 葉 」は必要ありませんでした。私達は再開した瞬間から自然に抱き合いお互いに「 帰 化 」という目標のために、長く遥かなる道のりをお互いに戦い抜いた「健闘」を讃え合いました。

私達はおたがいの「 体臭 」を感じながらも兄弟を超えたような、例えが古いかもしれないが、「 貴様と俺 」所謂戦友との抱擁でした。
そして、私は戦友に「 あなたは、今日から私と同じ日本人だ、本当におめでとう。 」
戦友は私に「先生、あなたは私の恩人だ‥…本当に‥本当に…ありがとう。」

帰化再申請が成功し、法務局前で記念撮影

○さんは4回目の帰化申請(通算14年1箇月)で帰化許可が「 交 付 」された。40代で始めた「 帰 化 」申請は許可が「 交 付 」されたときは60代になっていた。まさに「 帰 化 」に人生を捧げたといっても過言ではない。法務局に出頭し「帰化許可通知書 」の交付後、私とお互いに記念に撮影したもの
<朝鮮籍:○○順様:当時>

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