特別永住者の解説
特別永住者
特別永住者(とくべつえいじゅうしゃ)とは、平成3年(1991年)11月1日に施行された日本の法律「日本国との平和条約に基づき日本の国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法」により定められた在留の資格のこと、または該当資格を有する者をいう。
【特別永住者】という在留資格が設立された経緯及び背景は以下のとおりです。
先ず、「特別永住者」という在留資格ができた経緯及び背景は、日本の統治≪植民地≫政策や第二次世界大戦などの≪戦争≫にあります。
次に、日本の歴史と「朝鮮」、「台湾」の背景は、
(1)1851年 日本が、台湾を編入し、統治を開始しました。
(2)1910年 日本が、日(朝鮮)韓併合を行ないました。
この日本の統治≪植民地≫支配により、朝鮮人、台湾人の方は、「日本国籍」となったのです。それでは、具体的に日本国が敗戦を迎えた以後からの歴史を振り返ります。
総説
ポツダム宣言を受け入れた大日本帝国は、アメリカ海軍の戦艦ミズーリ艦上での日本の降伏文書調印日(1945年(昭和20年)9月2日)以前から、引き続き日本内地に居住している平和条約国籍離脱者(朝鮮人及び台湾人)とその子孫を主に対象としているが、朝鮮・韓国系の特別永住者には、戦後の密航者も多く含まれる。
第二次世界大戦終結後、日本の領土下にあった朝鮮半島は、ヤルタ協定によって連合国に分割占領され、後に大韓民国・朝鮮民主主義人民共和国として独立し、同じく日本の領土下にあった台湾は中華民国となった。そして、日本国との平和条約によって、日本がそれらの国または地域の独立を認めるに際して、法務府民事局長から「平和条約の発効に伴う朝鮮人台湾人等に関する国籍及び戸籍事務の処理について」と題する通達が出され、それらの国家の主権が及ぶべき法的地位にあると認められる者は、講和条約の発効(1952年(昭和27年)4月28日)と伴に一律に日本国籍を喪失する取扱いとなった(日本国籍者で居続けるか、朝鮮籍・中華民国籍に戻るかの選択肢は、当事者に与えられなかった)。
そして、日本国政府は、これら国籍離脱者の関係国への送還を、GHQや韓国政府などと調整していた経緯があるが、受け入れられず、「かつて日本国籍を有していた外国人」を協定永住許可者として在留資格を認めた(一般的な永住資格を持つ外国人である一般永住者とは異なる)。
2019年6月末時点での特別永住者の実数は、31万7849人であり、2019年6月末時点の国籍別では「韓国・朝鮮」が31万4146人と98.8%を占める。
• 特別永住者は、三大都市圏の10都府県に集中しているのが特徴で、近畿圏(大阪・兵庫・京都の3府県)に45%、首都圏(東京・神奈川・埼玉・千葉の4都県)に22%、中京圏(愛知・三重・岐阜の3県)に7%が居住している。
• 3大都市圏を合わせると実に78%、3分の2超が、これらの地域に集中している。
それでは、ここから一般永住者とは異なる枠の「特別永住者」が発生した経緯を概説します。
• 1895年の台湾編入や1910年の日韓併合により、台湾人や朝鮮人などは日本国籍となったが、1945年、ポツダム宣言の受諾による日本敗戦と第二次世界大戦の終結により、在日旧植民地出身者が、1952年4月28日まで、法律上なお日本国籍を保持していたことに端を発する。
• 1945年(昭和20年)末からGHQ指令による非日本人の送還が始まり、12月には清瀬一郎らの主張により、旧植民地出身者(朝鮮人・台湾人・樺太人)を戸籍から外し、その上で戸籍法の適用を受けない者の参政権を「当分ノ内停止」する内容の、衆議院議員選挙法改正案を可決した。
• 終戦直後にはおよそ200万人の朝鮮人が居住していたとされるが、そのうちの150万人前後は1946年3月までに日本政府の手配で帰還している(うち、徴用で来日したものは245人が残留)。
• 1946年、GHQ・日本政府は植民地出身者を「日本国籍を保有するとみなされる」とし、地方の法律・規則に服すこと、1947年には、日本学校に通学することを義務づけ、これにより都道府県は、朝鮮学校の学校閉鎖令を出したが、これに反発した在日朝鮮人が阪神教育事件(1948年)を起こしている。
• 1947年には、最後のポツダム勅令である外国人登録令第11条により「台湾人のうち内務大臣の定める者及び朝鮮人は、この勅令の適用については、当分の間、これを外国人とみなす」とされ、これにより日本の居住する植民地出身者は外国人登録申請の義務が課せられ、その移動(日本列島内及び朝鮮半島から日本列島への移動を問わず)には特別な規制が課された。もっとも、勅令は入国管理に関するものではなく、朝鮮半島から日本列島への移動を含めて国内移動としての規制である。
• 1948年、韓国・北朝鮮は、それぞれ1948年に連合国軍政から独立した。1948年4月3日に済州島四・三事件が起こり、在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁支配下にある南朝鮮(現在の大韓民国)政府が、島民の動きに南朝鮮労働党が関与しているとして、島民全人口の20%にあたる6万人を虐殺、島内の70%が焼き尽くされた。この事件に続いて同年10月19日、麗水・順天事件が起こり反乱軍のみならず8000人の民間住民が虐殺された。これらの虐殺事件の際にも、済州島や全羅南道から、多くの韓国人が日本に不法入国した(1955年までに1万2500人)。
• これらの事件について、韓国政府は長い間タブー視し、事件の全容が明らかになったのは、民主化宣言後の1990年代以降である。但し、日本は1952年のサンフランシスコ平和条約発効まで、国際法上の朝鮮半島の領有権を喪失していなかったため、「不法入国」という表記は正しくないという説もあるが、既に朝鮮半島の実効支配権を失っており、またポツダム宣言には朝鮮の自由と独立などに言及したカイロ宣言の条項履行対象が記載されており、日本の朝鮮半島領有権喪失は既定路線となっていた。当時の日本国政府や新聞では、この時期に朝鮮半島から密航してくる者を「不法入国者」としており、日本政府も取締りを行っている。
• 1949年には、当時の吉田首相が、在日朝鮮人は100万人程おり、その半数は不法入国で、日本で犯罪を犯す者も多く、日本の復興に全く貢献していないので、「日本の経済復興の貢献する能力を有すると思われる朝鮮人」以外は、日本が費用を持つので母国たる朝鮮半島に帰還して欲しいという「在日朝鮮人に対する措置(1949年)」文書をマッカーサーへ提出している。
• 1950年6月から1953年7月にかけては、朝鮮戦争が勃発し、半島全土が荒れ地となる。
• 1952年、サンフランシスコ講和条約発効により日本が国家主権を回復すると、同時に日本領土の最終画定に伴う朝鮮の独立を承認した。これにともない日本政府は「朝鮮人は講和条約発効の日をもって日本国籍を喪失した外国人となる」という通達を出し、旧植民地出身者は名実共に日本国籍を失った。
日本国籍を失った在日韓国朝鮮人は法律で「在留資格及び在留期間が決定されるまでの間、引き続き在留資格を有することなく本邦に在留することができる」とされた。当時の殆どの韓国朝鮮人は、併合による日本国籍の保持に興味は無く、これらの日本国籍喪失措置に異議を唱えなかった。また韓国政府は、日本の要請があっても在日韓国・朝鮮人の送還を拒否している。
こうした終戦以降の一連の日本国政府の対応について、旧植民地出身者の国籍は『選択可能』にするのが、当時の国際基準であったにもかかわらず、通達によって一方的に国籍を剥奪した、都合良く「日本国籍保有者」「外国人」の扱いを使い分けた、と批判する研究者もいる。もっとも、この通達は国際的な承認を得たサンフランシスコ講和条約第2条(領土の放棄または信託統治への移管)に伴うものであると、最高裁判所で解釈されている。
なお、平和条約第11条に「日本国は、連合国軍戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、かつ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする」と定めていることから、巣鴨刑務所に戦犯として拘禁されていた29人の朝鮮人と1人の台湾人が「平和条約発効と同時に日本国籍を喪失したので、同条約11条にいう日本国民には該当せず、拘束を受けるべき法律上の根拠はない」として1952年6月14日に人身保護法による釈放請求裁判を提起したが、1952年7月30日に最高裁判所は「戦犯者として刑が科せられた当時日本国民であり、かつ、その後引き続き平和条約発効の直前まで日本国民として拘禁されていた者に対しては、日本国は平和条約第一一条により刑の執行の事務を負い、平和条約発効後における国籍の喪失または変更は、右義務に影響を及ぼさない」と判決が下され、刑期満了又は仮釈放まで服役することになった。
1955年、当時の小泉純也法務政務次官は国会において、在日朝鮮人らは、母国に帰りたいという者が一人もいないと言える状態で、一方半島からは手段・方法を選ばず、命がけでどんどん密航をしてきており、日本が彼らを強制送還をしようとしても、韓国政府はこれを受け入れない為、日本に入れっぱなし状態であり、朝鮮戦争で密航してきた者等を収容していた大村収容所も人員が一杯で、入国管理局だけでは手に負えない状況であることを答弁している。
また1959年の朝日新聞によれば、在日韓国朝鮮人は日本政府や連合国の手配を拒んで自ら残留したものである[9]。また同年には、朝鮮戦争にともない、日本でも北朝鮮政府支持者と韓国政府支持者との紛争が多発した(新潟日赤センター爆破未遂事件)。
1965年、日韓基本条約締結に伴い締結された在日韓国人の法的地位(協定永住)について定めた日韓両国政府間の協定(日韓法的地位協定)により、在日韓国人に「協定永住」という在留資格が認められた。これは国外退去に該当する事由が他の外国人と比べて大幅に緩和されたもので、資格は2代目まで継承できることとし、3代目以降については25年後に再協議することとした。
1977年からは在日本大韓民国民団(民団)主導で「差別撤廃・権益擁護運動」が開始され、在日韓国人の参政権獲得運動も始まった。当時、民団は「日本語を使い、日本の風習に従う社会同化は義務」としていた。
1991年、入管特例法により3代目以降にも同様の永住許可を行いつつ、同時に韓国人のみが対象となっていた協定永住が朝鮮籍、台湾籍の永住者も合わせて特別永住許可として一本化された。また、この時の「九一年日韓外相覚書」には「地方自治体選挙権については、大韓民国政府より要望が表明された」と明記された。
要件
特別永住者と認定されるには、次のいずれかの要件を満たすことが必要である。
1.平和条約国籍離脱者または平和条約国籍離脱者の子孫で1991年11月1日(入管法特例法施行日)現在で次の各号のいずれかに該当していること
(1)次のいずれかに該当すること
ア 旧昭和27年法律第126号第2条第6項の規定により在留する者(平和条約国籍離脱者として当分の間在留資格を有さなくても日本に在留することができるものとされた者)
イ 日本国に居住する大韓民国国民の法的地位及び待遇に関する日本国と大韓民国との間の協定の実施に伴う出入国管理特別法(旧日韓特別法。廃止)の規定により永住の許可(いわゆる協定永住)を受けている者
ウ 入管特別法改正前の入管法(以下「旧入管法」という)の規定に基づき永住者の在留資格を有して在留する者
(2)旧入管法に基づき平和条約関連国籍離脱者の子の在留資格をもって在留する者
2.平和条約国籍離脱者の子孫で出生その他の事由により上陸の手続を経ることなく日本に在留する者で、60日以内に市区町村長を通じて出入国在留管理長官に特別永住許可申請をして許可を受けた者
「平和条約国籍離脱者」及び「平和条約国籍離脱者の子孫」
特別永住者であるためには「平和条約国籍離脱者」又は「平和条約国籍離脱者の子孫」であることが前提要件とされ、具体的には1952年4月28日発効のサンフランシスコ講和条約により日本国籍を離脱したものとされた在日韓国・朝鮮人及び在日台湾人(朝鮮戸籍令及び台湾戸籍令の適用を受けていた者で1945年9月2日以前から日本の内地に継続して在留している者)が対象となる。日本国外に出国し在留の資格を喪失した者(一般には韓国・朝鮮民主主義人民共和国に帰国した者を指す)はここでいう「平和条約国籍離脱者」には該当しない。
1951年11月制定の入国管理法と同様のこの要件を、敗戦後一時帰国して再来日した者が対象にならないとして批判する研究者もいる。
「平和条約国籍離脱者の子孫」とは平和条約国籍離脱者の直系卑属で日本で出生しその後引き続き日本に在留する者であることが基本的要件となる。したがって、平和条約国籍離脱者の子孫であっても日本国外で出生した場合などは特別永住許可を得ることはできない。
特例
特別永住者は本人又は父母がかつて日本国籍の保有者であったという歴史的経緯から、他の外国人(特に通常の永住者)と比べ、次のような特例処置を受ける。
退去強制
特別永住者は、退去強制となる条件が他の外国人よりも限定される(特例法第22条)。具体的条件は次のとおり。
1. 内乱罪(付和随行を除く)、内乱予備罪、内乱陰謀罪、内乱等幇助罪、外患誘致罪、外患援助罪、それら未遂罪、予備罪、陰謀罪で禁錮刑以上に処せられた。(執行猶予が付いた場合は除く)
2. 外国国章損壊罪、私戦予備罪、私戦陰謀罪、中立命令違反罪で禁錮刑以上に処せられた。
3. 外国の元首、外交使節又はその公館に対しての犯罪で禁錮刑以上が処せられ、かつ法務大臣が(外務大臣と協議の上)日本の外交上の重大な利益が損なわれたと認定した。
4. 無期又は7年を超える懲役又は禁錮に処せられ、かつ法務大臣が日本の重大な利益が損ねられたと認定した。
特別永住者以外の外国人の退去強制手続が出入国管理及び難民認定法第24条に規定される退去強制事由(20項目以上)に基づくのに対し、特別永住者には同条は適用されず上記のような日本国の治安・利益にかかわる重大な事件を起こさない限り退去強制となることがない。
なお、実際に7年以上の懲役又は禁固刑に処せられた特別永住者は存在するが、法務大臣が日本の重大な利益が損ねられたと認定したことが無いため退去強制は行われたことはない。これをもってこの条項は死文化しているとの批判がある。
重大事件の犯罪者自身が希望して韓国への永住帰国した結果として特別永住許可が失効した例はある(殺人事件で無期懲役判決を受けて仮釈放された金嬉老、2つの経済事件で計13年半の懲役刑を受けて刑期途中で韓国に移送された許永中等)。
再入国許可
2007年11月20日以降、外国人は日本への入国(再入国を含む)の際に、顔画像と両手人差し指の指紋照合(J-BIS)を義務付けられるが、特別永住者は日本国籍保持者と同様に免除される。一方、韓国では17歳以上の外国人は指紋と顔写真を登録しなければ入国することが出来ない(指紋押捺拒否運動)。
また、その審査に当たっては通常の外国人には、上陸拒否事由に該当する場合は再入国許可が得られても上陸拒否されるが、特別永住者の場合は有効な旅券を有しているか否かのみが審査され、上陸拒否事由に該当したとしても再入国することができる。
また、通常の外国人の場合再入国の有効期限の上限が5年であるのに対し、特別永住者の上限は6年であり、再入国の許可を受けて出国した者について、当該許可の有効期間内に再入国することができない相当の理由があると認めるときは、その者の申請に基づき、1年を超えず、かつ、当該許可が効力を生じた日から7年を超えない範囲内(通常の外国人の場合は6年を超えない範囲)で有効期間の延長を認めることができる。
また、有効な旅券及び特別永住者証明書を所持して、日本から出国する者に適用される「みなし再入国許可」については、有効期間2年間(通常の永住者については1年間)の「みなし再入国許可」があったものとみなされる。
日本国が国家承認していない、中華民国政府が発行する中華民国旅券については、中華人民共和国の地域の権限のある機関が発行した旅券に相当する文書として入管法2条5号ロ及び同法施行令1条により、有効な旅券とみなされ、同旅券を所持することにより、みなし再入国許可制度の適用を受けることができる。しかし、日本国が国家の承認をしていない、北朝鮮政府が発行する旅券については、有効な旅券として日本国は認めていないので、同旅券を所持していても「みなし再入国許可制度」の適用を受けることができない。
登録証明書携帯義務違反における罰則の特例
通常の外国人の場合、パスポートや在留カードを携帯していない場合、刑事罰として20万円以下の罰金に処せられる可能性があるが、特別永住者の場合は、行政罰としての10万円以下の過料に処せられる可能性に留まり、携帯義務違反を理由に現行犯逮捕や強制捜査の対象にはならないこととなる(提示義務違反は刑事罰の対象になる)。
また、特別永住者は在留管理制度の変更に伴い導入された、在留カードの対象外となっており、これに類似したカード状の「特別永住者登録証明書」が発行される。特別永住者登録証明書には携帯の義務はないが、入国審査官、入国警備官、警察官、海上保安官その他法務省令で定める国又は地方公共団体の職員から提示を要求された場合は、保管場所まで同行するなどして提示することが必要となる。
雇用対策法に基づく届出義務適用除外
2007年10月1日から事業主は、雇用対策法に基づき外国人を雇用した場合及び離職した場合、公共職業安定所に対し届出義務があるが、特別永住者については外交・公用の在留資格を有する者とともに届出義務が課せられない。また、国または地方公共団体が外国人を雇用した場合も公共職業安定所にその旨通知する必要があるが、同様に特別永住者についてはその適用がない。
資格の喪失
特別永住者であっても、あらかじめ再入国許可を受けることなく日本から出国(いわゆる単純出国)したり、再入国許可の有効期限が消滅した後も日本国に入国しない場合は特別永住者資格を喪失する。喪失した場合は再び特別永住者資格を取得することはできない。
これは、日本に継続して在留していることが特別永住者の要件であるところ、再入国許可を受けないまま出国した場合はその時点で、再入国の有効期間を過ぎてもなお日本に入国しない場合は出国した時点に遡って、いずれも特別永住者資格を喪失し、「継続して在留した」との要件を満たさなくなるためである。
なお、再入国許可を得て出国しその有効期間内に再入国した場合は継続して日本に在留しているものとして扱われる(これは在留の資格に関する解釈便宜上に限った観念であって、時効の停止・税法の適用など他の法令の解釈には影響しない)。
特異な事例としては、一時的出国に際して再入国許可を申請したが、外国人登録原票への指紋押捺拒否等により同申請が不許可となり、にもかかわらず日本から出国したため協定永住資格を喪失、再来時に当時の在留資格4-1-16-3(定住者に相当)を付与されたあと、行政訴訟等で制度の改善運動を行い、その結果、事後立法により特別永住者資格とするとの「みなし規定」で資格が復活した例がある(入管特例法附則第6条の2)。
それでは、日本国内における最近(30年間)の特別永住者の人口の推移と現在各都道府県に分散している特別永住者の人口や全体構成比は以下のとおりとなっています。
【特別永住者】の人口の推移表
年 | 人数 | 外国人全体(割合) |
平成03年(1991年) | 693,050 | 約57% |
平成08年(1996年) | 554,032 | 約37% |
平成09年(1997年) | 543,464 | 約37% |
平成10年(1998年) | 533,396 | 約35% |
平成11年(1999年) | 522,677 | 約34% |
平成12年(2000年) | 512,269 | 約30% |
平成13年(2001年) | 500,782 | 約28% |
平成14年(2002年) | 489,900 | 約26% |
平成15年(2003年) | 475,952 | 約25% |
平成16年(2004年) | 465,619 | 約24% |
平成17年(2005年) | 451,909 | 約22% |
平成18年(2006年) | 443,044 | 約21% |
平成19年(2007年) | 430,229 | 約20% |
平成20年(2008年) | 420,305 | 約17% |
平成21年(2009年) | 409,565 | 約17% |
平成22年(2010年) | 399,106 | 約17% |
平成23年(2011年) | 389,083 | 約17% |
平成24年(2012年) | 381,645 | 約17% |
平成25年(2013年) | 373,221 | 約18% |
平成26年(2014年) | 358,409 | 約17% |
平成27年(2015年) | 348,626 | 約16% |
平成28年(2016年) | 338,950 | 約14% |
平成29年(2017年) | 329,822 | 約13% |
平成30年(2018年) | 321,416 | 約12% |
【特別永住者】都道府県別数
平成30年(2018年)末現在 特別永住者都道府県別数 |
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都道府県 | 人 数 | 構成比 |
大阪府 | 82,996 | 25.80% |
東京都 | 42,669 | 13.30% |
兵庫県 | 38,124 | 11.80% |
愛知県 | 25,922 | 8.00% |
京都府 | 22,090 | 6.80% |
神奈川県 | 17,178 | 5.30% |
福岡県 | 11,868 | 3.90% |
埼玉県 | 8,631 | 2.60% |
千葉県 | 7,494 | 2.30% |
広島県 | 7,129 | 2.20% |
山口県 | 5,238 | 1.60% |
岡山県 | 4,410 | 1.30% |
三重県 | 4,060 | 1.20% |
滋賀県 | 3,902 | 1.20% |
岐阜県 | 3,656 | 1.10% |
静岡県 | 3,306 | 1.00% |
北海道 | 3,096 | 0.90% |
奈良県 | 2,933 | 0.90% |
茨城県 | 2,262 | 0.70% |
長野県 | 2,138 | 0.60% |
福井県 | 1,939 | 0.60% |
宮城県 | 1,816 | 0.50% |
和歌山県 | 1,754 | 0.50% |
群馬県 | 1,508 | 0.40% |
栃木県 | 1,428 | 0.40% |
石川県 | 1,222 | 0.30% |
大分県 | 1,186 | 0.30% |
新潟県 | 1,037 | 0.30% |
その他の県 | 10,404 |
特別永住者は三大都市圏の10都府県に集中しているのが特徴で、近畿圏(大阪・兵庫・京都の3府県)に45%、首都圏(東京・神奈川・埼玉・千葉の4都県)に22%、中京圏(愛知・三重・岐阜の3県)に7%が居住している。合わせると実に78%、3分の2超がこれらの地域に集中している。
戦後来日の特別永住者
上記のように、特別永住者資格の法律では「戦前から日本に居住しているかつて日本国民だった旧植民地の人々で、サンフランシスコ講和条約により日本国籍を失った人々」であることが前提要件となっているが、実際には戦後、済州島四・三事件や朝鮮戦争の戦火から逃れるために、生活の糧を求めて出稼ぎのために、荒廃した朝鮮半島より学問の進んだ日本の学校で学ぶために、中には政治的目的のために、数多くの韓国・朝鮮人が日本へ密航し日本国内の混乱に乗じて永住権(のちの特別永住資格)を得た。戦後来日した特別永住者の例としては、元特別永住資格者(元在日韓国人)のマルハン韓昌祐会長は、戦後の1945年10月に出稼ぎのために密航で来日したと語っており、特別永住資格者(在日韓国人3世)の俳優チョウ・ソンハは、「韓国の済州島出身の祖父は、戦後、大学で学ぶために日本に来た在日1世でした」と語っている。
また、1950年6月28日の産業経済新聞(当時 産経新聞の旧称)朝刊では「終戦後、我国に不法入国した朝鮮人の総延人員は約20万から40万と推定され、在日朝鮮人推定80万人の中の半分をしめているといわれる」とし、密航船の監視は海上保安庁が当たっているが、敗戦国の影響のため武装できず、一方で密航船は武装しており、2割ほどしか検挙できていないこと、そして入国した彼らは外国人登録証明を暴力と買収で得て、それがそのまま合法化となっている現状を伝えている。新聞社推定では70万人(2000年時)の在日韓国・朝鮮人のうち26パーセントにあたる18万人が戦後に日本に渡って特別永住資格を得た者であると述べている。
少数ではあるが、台湾・中国からの戦後の密航者も存在した。
特別永住者の国籍
• 元々、平和条約国籍離脱者が韓国・朝鮮人、台湾人のみであったため、「平和条約国籍離脱者」及び「平和条約国籍離脱者の子孫」である特別永住者にも、その3つの国籍が非常に多い。両親の国籍が日本以外の別々の国である場合、成人した子供が韓国・朝鮮、台湾以外の方の国籍を選択することがある。そのことにかかわらず、両親の一方が特別永住者であった場合、特別永住許可を申請できる。
• 朝鮮半島や台湾から、第二次世界大戦に移住してきた人々やその子孫で現在も日本国籍を取得していない、いわゆる「特別永住者」の人口は、2019年6月末時点で317,849人(韓国・朝鮮人 314,146人、中国人 843人、台湾人 1,154人、アメリカ人825人、その他)である。また特別永住者とは別に「永住者」の在留資格を持つ在日外国人の人口は、2018年12月末時点で 783,513人である。
• 日本国籍を有していないため、日本国旅券が発行されない。そのため、海外旅行には日本国政府発行の「再入国許可書」が必要になり、国家の発行したパスポートでもないので、渡航先の国家による出入国管理は、別室で身元審査など出入国に困難が伴う。
法務府民事局通達及び外国人登録法
発効の直前、1952年(昭和27年)4月19日に法務府民事局長が通達を出し、「平和条約の発効に伴う朝鮮人台湾人等に関する国籍及び戸籍事務の処理について」によって在日台湾人及び朝鮮人は一律に日本国籍を喪失することとなった。
平和条約にはこれらの人の国籍に関する明文はなかったが、政府は戸籍法を基準として、内地に戸籍の無い住民は全て日本国籍を喪失するとした。台湾については、1952年4月28日に日本が中華民国国民政府と調印し、8月5日に発効した日華平和条約をもって台湾人は日本国籍を喪失したとされた。
これら決定に至る過程で、日本政府内には当初旧植民地人に対して国籍選択権を与える考えがあったことも指摘されている。また一方で、たとえば当時の韓国政府は韓国併合以前の条約は全て無効であるとの立場をとっており、日本に在住する韓国人(朝鮮人)については、そもそも日本国民ではなく、大韓民国樹立によって日本国籍とされていたものから離脱し韓国国籍を回復した、とする「在日韓国人の法的地位に関する見解」を連合軍総司令部に伝えていた。
平和条約発効の同日、外国人登録法が制定された。日本政府は在日台湾人及び在日朝鮮人に対して国籍選択権を与えないことを決め、彼らは日本国籍を失い、外国人として日本で暮らすことになった。在日台湾人及び在日朝鮮人が日本国籍を望む場合は国籍法に基づき帰化をする必要があるが、その場合は一般の外国人と同様に法律で定められた一定の条件を満たした上で帰化裁量権を持つ日本政府によって帰化されなければならなかった(内地人として生まれた後で朝鮮人又は台湾人との婚姻、養子縁組等の身分行為により内地の戸籍から除籍させられた平和条約国籍離脱者は、国籍法第5条第2号の「日本国民であった者」及び第6条第4号の「日本の国籍を失った者」に該当するとされ、帰化条件が有利になった)。
戦後以後の特例措置
日本国籍を喪失した旧植民地人は、参政権をはじめ国民年金や国民健康保険などの日本で生活する社会的権利が与えられなかった。彼らにとって、日本国民として日本人とほぼ同等であった戦前とは逆に、戦後は他の外国人と同様の扱いとなった。その後、徐々に旧植民地出身の外国人には特例がなされるようになった。1960年代の後半から国民健康保険制度が、1980年代には国民年金制度が適用されるようになった。
1991年(平成3年)に、出入国管理及び難民認定法(入管法)の特例として施行された法律(入管特例法)で、戦前から定住する旧植民地人(いわゆる平和条約国籍離脱者)とその子孫は特別永住者となった。これらの人々には、日本国民と同等の社会的権利の多くが認められるようになったが、参政権については国政選挙、地方選挙に関わらず認められていない。
総括
日本国民たる要件は日本憲法第10条(国民の要件)に基づき、国籍法で定められています。現国籍法は昭和60年(1985年)1月1日より施行されました。旧憲法(大日本帝国憲法)時代には一般国民をさらに内地人と外地人に区分していました。外地人はさらに、朝鮮人を指す内鮮人や台湾人を指す内台人に細分化されていました。したがって、当時の日本国の国籍は、内地戸籍、内鮮戸籍、内台戸籍の3種類の戸籍が存在していたのです。
1945年 日本は、ポツダム宣言受諾により、日本は敗戦となります。
敗戦により、日本にいる旧統合地である朝鮮人や台湾人の方は、「当分の間は外国人」と不安定な地位となりました。そして日本は、朝鮮人や台湾人の人を本国に帰国手続きをしました。終戦のとき、日本には約200万人の朝鮮人・台湾人がおり、そのうち150万人は、本国の朝鮮に帰国したといわれています。それでも、50万人位の朝鮮の方は、日本に残ったのです。
1950年日本の敗戦後、朝鮮半島の「北と南」による朝鮮戦争が起きました。
戦争をのがれるため、朝鮮から入国者が増えました。これらの入国者は、殆んどが正規の手続きを経ない密入国者とされています。
日本は、戦後混乱であり、朝鮮からの入国者すべてを規制することはできなかったのです。
1952年4月27日 サンフランシスコ講和条約発効により日本は国家主権を回復しました。
日本は、敗戦の1945年から1952年の7年間はアメリカの管理下でしたが、この日より日本が、自国で自立した政治をできるようになったのです。
国家主権回復にともない、日本政府は、「朝鮮人は、サンフランシスコ講和条約発効の日(1952.4.27)以降は、日本国籍を喪失した外国人となる。」と通達をしました。そして10年近く、「日本国籍を喪失した朝鮮人」が「日本にいる」状態が続きました。
1965年になってようやく、「日韓基本条約」が締結されました。
この条約により、日本政府は、在日朝鮮人の人に「協定永住」というかたちで在留を認めました。この内容は、
「協定永住」は、退去強制に該当する項目が他の外国人と比べ緩和されています。「協定永住」は、「2代目まで継続」できます。「3代目以降」は、25年後に再協議するとしました。
1991年(平成3年)11月1日に施行された「日本国との平和条約に基づき日本の国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法(入管特例法)」
「3代目以降」にも、「永住許可」を与える事が特例法(入管特例法)で正式に決定したのです。
このような歴史の変遷から、「特別永住者」の定義とは。
1952年のサンフランシスコ講和条約発効前(日本の国家主権回復前)から日本にいた主に「朝鮮人」「台湾人」を指し、
「特別永住者」とは。1950年前後、朝鮮戦争および日本の混乱期に朝鮮からのがれてきた入国者(密入国者含む。)ということになります。
昭和27年(1952年)4月28日午後10時の「サンフランシスコ平和条約の発効」に伴い日本国は歴史的惨禍を経て国連軍に北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)、韓国(大韓民国)、ならびに、台湾(中華民国)を返還しました。その時点で戸籍は現行憲法のもとに1種類に集約されたのです。